2020.09.30 山縣勇三郎について

 本書簡の書き手である山縣勇三郎は、1860(万延元)年2月、肥前平戸藩の勘定奉行の家系、中村弥八郎・トモの四男として生れた。1872年、13歳の時に同藩士・山縣沈雄の養子となる。
 1879年に上京し、陸軍士官学校を受験するも失敗。1881年に北海道に渡り、古物商、ニシン漁場経営、海産物商をはじめ、鉱山経営や海運業に事業を拡大し巨利を博した。1894年に始まった日清戦争に感発され、事業を弟たちに任せ、「蒙古探検」のため従者2人とともに出発したが、朝鮮・平壌で病に倒れて帰国を余儀なくされたという。ここには明治人らしい立身出世と海外雄飛への志が見て取れる。1889年には、弟・精七郎をアメリカ留学に送り出している。
 1908年3月、シベリア鉄道経由でブラジルを目指し、ロンドン経由で、5月18日にリオデジャネイロに到着。日本最初のブラジル集団移民を運ぶ笠戸丸がサントスに到着する1ヶ月前であった。その後、リオデジャネイロ州マカエ郡におけるカショエイラ農場経営(米作、甘蔗栽培、アルコール醸造業を含む)、同州カーボフリオ郡サンペドロの塩田の購入と経営、漁業・海運業への進出。1920年にブラジル最初の水産学校「フレデリコ・ビラール水産学校」(Escola Industrial de Pesca Frederico Villar)を設立する。
 ブラジル在住日本人数万人、そのほとんどがサンパウロ州のコーヒー農場の契約労働者であった時期に、日本人移住者の主流と異なり、リオデジャネイロ州を基盤にこれらの事業を展開したことは、ブラジル日本人移民の多様性という観点から注目に値する。カショエイラ農場には、星名謙一郎、三浦鑿、金子保三郎、安田良一、石橋恒四郎、坂元靖など、ブラジル入国初期にこの農場に足をとどめたのち各地に雄飛し日系社会の指導者に成長していった人びとが足をとどめている。
 1924年2月25日、カショエイラ農場にて死去。

山縣勇三郎(1860~1924)

参考文献

根川幸男(2020. 3)「平戸から新世界へ―山縣勇三郎のブラジル雄飛」稲賀繁美編『異文化へのあこがれ―国際都市平戸とマカオを舞台に―在外資料が変える日本研究/Yearning for Foreign Cultures An International Symposium in Hirado and A Panel in Macau New Aspects of Japanese Studies based on Overseas Documents』、人間文化研究機構ネットワーク型基幹研究プロジェクト、pp.49-62.