概要
 本調査・研究は、人間文化研究機構ネットワーク型基幹研究プロジェクト「日本関連在外資料調査研究・活用事業」の「基本計画」にもとづくものである。すなわち、本「基本計画」は、2018年度を以て終了した「ハーグ国立文書館所蔵平戸オランダ商館文書調査研究・活用」(国際日本文化研究センター)の成果を受け継ぎ、また、2018年度に長崎県平戸市で開催した国際シンポジウム「国際海洋都市平戸と異文化へのあこがれ―在外資料が変える日本研究―」の成果をふまえ、「プロジェクト間連携による研究成果活用」(以下「研究成果活用班」)が、平戸市ほかの機関との連携を基礎として、あらたな調査研究・活用事業を展開するという目標を掲げる。研究成果活用班では、こうした目標にもとづき、新たに入手した、ブラジル・リオデジャネイロ州において活躍した平戸出身の国際的実業家・山縣勇三郎(1860~1924)の自筆書簡について調査・研究するものである。

 同書簡の研究成果については順次公開していく。

 

山縣勇三郎について

本書簡の書き手である山縣勇三郎は、1860(万延元)年2月、肥前平戸藩の勘定奉行の家系、中村弥八郎・トモの四男として生れた。1872年、13歳の時に同藩士・山縣沈雄の養子となる。

 1879年に上京し、陸軍士官学校を受験するも失敗。1881年に北海道に渡り、古物商、ニシン漁場経営、海産物商をはじめ、鉱山経営や海運業に事業を拡大し巨利を博した。1894年に始まった日清戦争に感発され、事業を弟たちに任せ、「蒙古探検」のため従者2人とともに出発したが、朝鮮・平壌で病に倒れて帰国を余儀なくされたという。ここには明治人らしい立身出世と海外雄飛への志が見て取れる。1889年には、弟・精七郎をアメリカ留学に送り出している。

1908年3月、シベリア鉄道経由でブラジルを目指し、ロンドン経由で、5月18日にリオデジャネイロに到着。日本最初のブラジル集団移民を運ぶ笠戸丸がサントスに到着する1ヶ月前であった。その後、リオデジャネイロ州マカエ郡におけるカショエイラ農場経営(米作、甘蔗栽培、アルコール醸造業を含む)、同州カーボフリオ郡サンペドロの塩田の購入と経営、漁業・海運業への進出。1920年にブラジル最初の水産学校「フレデリコ・ビラール水産学校」(Escola Industrial de Pesca Frederico Villar)を設立する。

ブラジル在住日本人数万人、そのほとんどがサンパウロ州のコーヒー農場の契約労働者であった時期に、日本人移住者の主流と異なり、リオデジャネイロ州を基盤にこれらの事業を展開したことは、ブラジル日本人移民の多様性という観点から注目に値する。カショエイラ農場には、星名謙一郎、三浦鑿、金子保三郎、安田良一、石橋恒四郎、坂元靖など、ブラジル入国初期にこの農場に足をとどめたのち各地に雄飛し日系社会の指導者に成長していった人びとが足をとどめている。

1924年2月25日、カショエイラ農場にて死去。

山縣勇三郎(1860~1924)

参考文献

根川幸男(2020. 3)「平戸から新世界へ―山縣勇三郎のブラジル雄飛」稲賀繁美編『異文化へのあこがれ―国際都市平戸とマカオを舞台に―在外資料が変える日本研究/Yearning for Foreign Cultures An International Symposium in Hirado and A Panel in Macau New Aspects of Japanese Studies based on Overseas Documents』、人間文化研究機構ネットワーク型基幹研究プロジェクト、pp.49-62.

 

山縣勇三郎書簡の紹介

主な内容:ブラジル在住の実業家・山縣勇三郎が、1918年6月に日本に一時帰国後、翌1919年11月にブラジルに再渡航する際、香港・シンガポールなど寄港地から長男・操らに発信された書簡。書簡は全部で14通あり(通し番号12欠)、最後の1通(通し番号15)のみは、1895年2月3日に馬関行船中より木寺茂吉に宛てた書簡。墨書やペン書きで、1通につき2~4枚の便箋や原稿用紙で構成されている。

資料入手の経緯:2019年2月9日、長崎県平戸市にて、人間文化研究機構ネットワーク型基幹研究プロジェクト「日本関連在外資料調査研究・活用事業」国際シンポジウム「国際海洋都市平戸と異文化へのあこがれ―在外資料が変える日本研究―」(主催:プロジェクト間連携による研究成果活用)が開催された。その際、所蔵者とその家族が来訪し、本資料の存在を知るに及び、その調査を開始した。その後、所蔵者より本資料を貸与され、デジタル化と翻刻を進めた。

凡例

翻刻にあたり、読みやすさを考慮して次のような措置を施した。

一、句読点・並列点を適宜付した。

一、改行は原本通りとした。

一、漢字は原則として旧字体を現行の字体に改めた。ただし固有名詞はその限りではない。

一、仮名遣いは、適宜濁点を付し、合字・変体仮名を現行の字体に改め、助字の「而」「者」「之」を仮名に改めた。踊り字は原本通り記載した。

一、難読漢字や漢文調の語句に適宜ルビをつけた。ただし便宜上の措置であり、他の読み方を否定するものではない。

一、原本にルビが振ってある場合はその下に〔原〕と記した。

一、誤字・誤用については、正しい文字を〔 〕内に記すか、〔ママ〕と記して傍注した。

一、判読不明箇所は字数分を□で示し、推測しうる文字を〔 ヵ〕と傍注した。 一、書き損じで抹消された部分は記載しなかった。

 

山縣勇三郎書簡原文と解読文

通し番号書き手宛先発信場所日付
01山縣勇三郎山縣操香港1919年11月23日
02山縣勇三郎山縣操香港・志あとる丸1919年11月25日
03山縣勇三郎山縣操新嘉坡1919年12月1日
04山縣勇三郎山縣操新嘉坡1919年12月5日
05山縣勇三郎山縣操コロンボ1919年12月15日
06山縣勇三郎・信子山縣操・政子リオデジャネイロ1919年2月16日
07山縣勇三郎山縣操リオデジャネイロ1920年2月19日
08山縣勇三郎山縣操リオデジャネイロ1920年3月8日
09山縣勇三郎山縣操・政子カーボフリオ1920年4月6日
10山縣勇三郎山縣操リオデジャネイロ1920年4月23日
11山縣勇三郎山縣操リオデジャネイロ1920年4月28日
12 欠
13山縣勇三郎山縣操リオデジャネイロ1920年5月30日
14山縣勇三郎山縣操発信場所不明(本文中に「漁場ニテ」とある)1920年9月22日
15山縣勇三郎木寺茂吉発信場所不明(本文中に「馬関行船中ニ於テ」とある)1895年2月3日

*通し番号をクリックすると、書簡と解読文画像が現れます。

 

資料形態:原資料デジタル化

所蔵者名:山縣茂徳

監修:根川幸男

翻刻:入山洋子

資料整理:岡田亜矢

デジタルページ作成:石田遼平