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2022.03.04   在外若手研究者シンポジウム報告書『在外資料がひろげる日本研究』が発行されました

日本関連在外資料調査研究・活用事業「プロジェクト間連携による研究成果活用」(代表:瀧井一博・国際日本文化研究センター副所長)は、この度、『若手研究者シンポジウム報告書―在外資料がひろげる日本研究』を電子媒体で発行いたしました。

2021年度は、人間文化研究機構ネットワーク型基幹研究プロジェクト「日本関連在外資料調査研究・活用事業」(在外プロジェクト)の最終年度に当たり、本シンポジウムは、次世代研究者育成という本事業の成果を内外に発信することを目的とし、2021年11月2日(火)に国際日本文化研究センターにおいて開催されました。

本報告書は二部構成になっており、第1部は、春藤献一氏(日文研・博士研究員)、井上史氏(ボストンカレッジ大学院後期博士課程修了Ph.D.)、湯上良氏(学習院大学人文科学研究所・客員所員)、青柳正俊氏(国立歴史民俗博物館・プロジェクト研究員)の4名の若手研究者による研究成果報告の記録です。また、第2部は、在外各プロジェクトを主導して来た、稲賀繁美教授(京都精華大学/日文研)、朝日祥之准教授(国立国語研究所)、太田尚宏准教授(国文学研究資料館)、日高薫教授(国立歴史民俗博物館)による各報告についてのコメント、一般参加者からの質問をうけての総合討議の内容を記録したものとなります。

これらはすべて、本事業の成果の国際的な成果発信および一般市民を含む社会との学術交流の一環として位置づけられます。こうした成果を資源として、在外資料を活用した研究が次世代に継承され、今後もいっそう進展していくことを祈念する次第です。

2021.11.11 在外若手研究者シンポジウム「在外資料がひろげる日本研究」が成功裏に終了

去る11月2日(火)、在外若手研究者シンポジウム「在外資料がひろげる日本研究」が国際日本文化研究センター(日文研)において開催されました。

2021年度は、人間文化研究機構ネットワーク型基幹研究プロジェクト「日本関連在外資料調査研究・活用事業」(在外プロジェクト)の最終年度に当たり、本シンポは、次世代研究者育成という本事業の成果を内外に発信することを目的として企画されたものでした。

昨今のコロナ禍の困難な状況をうけて、日文研第1共同研究室において対面での報告を行うとともに、一般の方々にはウェブ会議システム(Zoomウェビナー)を利用してご参加いただくというハイブリッド形式で実施されました。

開会にあたって、瀧井一博教授( 日文研 副所長・プロジェクト間連携による研究成果活用代表)が挨拶と趣旨説明を行い、続いて、第一部では、春藤献一氏(日文研・博士研究員)、井上史氏(ボストンカレッジ大学院後期博士課程修了Ph.D.)、湯上良氏(学習院大学人文科学研究所・客員所員)、青柳正俊氏(国立歴史民俗博物館・プロジェクト研究員)による研究成果報告が行われました。

また、第二部では、在外各プロジェクトを主導して来た、稲賀繁美教授(京都精華大学/日文研)、朝日祥之准教授(国立国語研究所)、太田尚宏准教授(国文学研究資料館)、日高薫 教授(国立歴史民俗博物館)による各報告についてのコメント、一般参加者からの質問をうけて、総合討議が行われました。

在外各プロジェクトの代表者・若手研究者が一堂に会するとともに、国内外から合わせて32名(登壇者含む)が参加し、限られた時間内ではありましたが、活発な質疑応答と討議が行われました。次世代研究者の育成および在外資料を活用したグローバルな研究成果の発信、一般市民を含む社会との学術交流という意味において、大いに実りのある催しとなりました。

最新の研究成果をご報告いただいた若手研究者の皆様、的確なコメントで活発な議論に導いてくださったコメンテーターの先生方、長丁場にもかかわらず最後までお付き合いいただいた一般参加者の皆様、そして準備の段階からさまざまな面でサポートいただいた日文研研究支援係の皆様、この場を借りて感謝申し上げます。

写真:シンポジウムの様子

2021.10.28. 在外若手シンポジウム資料事前配布

11月2日(火)に開催予定の人間文化研究機構ネットワーク型基幹研究プロジェクト「日本関連在外資料調査研究・活用事業」若手研究者シンポジウム「在外資料がひろげる日本研究」の井上・湯上・青柳三氏の報告資料を公開いたします。(春藤氏の報告資料は、当日のスライドのみとなります。)本事業の若手研究者育成の成果を、国際日本文化研究センターよりオンラインを通じてご報告するまたとない機会です。研究者や市民の皆さまのご参加をお待ちしております。

2021.10.27 在外若手シンポジウム予稿集公開

11月2日(火)に開催予定の人間文化研究機構ネットワーク型基幹研究プロジェクト「日本関連在外資料調査研究・活用事業」若手研究者シンポジウム「在外資料がひろげる日本研究」の予稿集PDF版を公開いたします。本事業の若手研究者育成の成果を、国際日本文化研究センターよりオンラインを通じてご報告するまたとない機会です。研究者や市民の皆さまのご参加をお待ちしております。

シンポのプログラムは下記チラシをご覧ください。

2021. 9. 15 在外若手研究者シンポジウム開催のお知らせ

人間文化研究機構ネットワーク型基幹研究プロジェクト
「日本関連在外資料調査研究・活用事業」若手研究者シンポジウム
「在外資料がひろげる日本研究」

 在外プロジェクトプロジェクト間連携による研究成果活用班では、11月2日(火)に若手研究者シンポジウム「在外資料がひろげる日本研究」を開催する運びとなりました。本事業の若手研究者育成の成果を、国際日本文化研究センターよりオンラインを通じてご報告するまたとない機会です。研究者や市民の皆さまのご参加をお待ちしております。下記URLやQRコードからお申込みください。

◆日時:2021年11月2日(火)13:30~17:00
◆会場:国際日本文化研究センター
◆オンライン開催
◆主催:人間文化研究機構ネットワーク型基幹研究プロジェクト「日本関連在外資料調査研究・活用事業」プロジェクト間連携による研究成果活用
https://172.18.1.181/zaigai-sokatsu.rspace/
◆お申込み方法:下記URLやQRコードからお申し込みください。
https://forms.gle/1ZB4fUCLMdAqpcGk9
(参加登録フォーム)

◆お問い合せ:国際日本文化研究センター管理部研究協力課国際研究推進係
koryu@nichibun.ac.jp

シンポジウムチラシ(画像をクリックしたらチラシ画像が開きます)


2021.6.26 北米班研究会「言語生活史研究に基づいた近現代の在外資料論の構築」が開催されました

北米班(国語研)研究会「北米における日本関連在外資料調査研究・活用―言語生活史研究に基づいた近現代の在外資料論の構築―」が、去る6月26日(土)、開催されました。オンライン方式で53人の参加者がありました。

シンポジウムは大きく二部構成とされ、第1部では、本プロジェクト代表・朝日祥之准教授(国語研)から「海を渡った日本語」に注目したプロジェクト立案の背景や調査・研究の進行状況、原山浩介准教授(日本大学)からは、「日系社会に関連する資料の収集・整備を通じた『在外資料論』構築の試み」について報告がありました。特に、朝日准教授からは、ハワイ出身の沖縄系、帰米二世、アメリカ陸軍兵士、占領軍通訳など多様な背景を持つ比嘉トーマス太郎と彼をめぐる史資料群という研究対象にたどり着いた経緯とともに、プロジェクトの最終目標ともいえる「在外資料論」の構築についての展望が示されました。(図1参照)また、原山准教授からは、特に「保存されにくい」移民資料を含む近現代史資料一般の危機的状況が示され、そうした中に合って、研究者が当面これらの問題にどのように対処すべきかなどについて、具体例にもとづく報告が行われました。

図1:比嘉トーマス太郎写真資料の可視化

また、第2部では、秋山かおり氏(日本学術振興会 特別研究員 PD/関西学院大学)による「『捕虜』収容所のなかの芝居と歌―ハワイと沖縄の共時性―」、井上史氏(Boston College大学院)による「比嘉トーマス太郎研究の意義および課題の検討英語圏の歴史研究との対話を通じて」という研究発表があり、これらの発表の後、活発な質疑応答が行われました。

秋山氏の報告では、終戦直後のハワイと沖縄において、米軍管理下の収容所で沖縄人捕虜や日本人捕虜たちによって芝居が復興し行われた事実が紹介されました。ハワイと沖縄での調査や貴重なインタビュー記録によって、それらが二つの場所での共時性を持った現象であった点や収容所という特殊な場で、沖縄芝居や歌という「伝統」が沖縄人捕虜たちによって継承され、再構築されていく過程が明らかにされました。(図2参照)

図2:沖縄芝居が行われたサンドアイランドの収容所(『具志川市史 第五巻戦争編戦争体験』(2005)所収)

井上氏の報告では、研究史における比嘉太郎の位置づけの分析から、軍事史・移民史・沖縄研究において周縁化された比嘉像の掘り下げが未開拓である点が指摘されました。また、構築された比嘉の「英雄」像をいかに克服するかという本質主義からの脱却とともに、彼の持つ二面性・多面性・境界性・トランスナショナルな面を酌量しながら、個人の重層性を明らかにしていくという今後の研究の方向性が示されました。

以上、日本本土、沖縄、ハワイ、北米にまたがったフィールドを横断的に視野に収めた研究の諸成果が明らかにされるとともに、現実に即した在外資料論を構築していくという方向性が提示され、北米プロジェクトの蓄積と今後のさらなる展開が期待される内容でした。

2021.3.10. 在外日本関係資料の伝播経路マップ・テスト版の公開

 

 この度、「日本関連在外資料の伝播経路マップ」(以下「航路マップ」)のテスト版として、徳川家康からオラニエ公マウリッツへの書簡の伝播経路を再現した3Dマップを公開いたしました。トップページの「関連WEBサイト」バナーか、メニューバー「活動内容」⇒「平成31年~令和2年の活動」からご覧になってください。 研究成果活用班では、2018年度より、在外各プロジェクトとの連携と成果活用の象徴的事業として、オランダ商館文書の伝播を例に航路マップの作成と可視化を試みてきました。まず、そのテストケースとして、F. クレインス日文研教授の協力を得つつ、在外平戸班が扱ってきたオランダ商館文書が欧州に伝播された一経路の3Dマップ上での再現に着手いたしました。本航路の3Dマップ化については、当初技術的に多くの困難を抱えていましたが、京都大学大学院理学研究科・地球物理学教室のチーム(代表:齊藤昭則准教授)が開発した「ダジックアース デジタル地球儀」のシステムを活用することにより、本テスト版の開発と公開が可能となりました。なお、公開には、当センター情報係の石田遼平氏にご助力いただきました。皆様のご協力に深謝いたします。

2021.01.06 山縣勇三郎書簡の公開

 山縣勇三郎(1860~1924)の自筆書簡については、当センター情報係の石田遼平氏の協力を得て、昨年より順次公開してまいりました。この度、当ホームページに「山縣勇三郎書簡の調査・研究」というコンテンツを新たに設け、書簡01~15(12欠)まですべての画像と翻刻文を公開する運びとなりました。山縣は、笠戸丸による第1回ブラジル移民以前の1908年5月にブラジルに到着し、主にリオデジャネイロ州において事業を展開しました。これらの書簡は、明治大正期の日本人のグローバル移動と南米での活動を知るために、貴重な史料となっています。また、これらの書簡の大部分が記された1919年は、世界的に「スペイン風邪」のパンデミックに見舞われた年で、書簡の内容にはその影響が現れています。移植民史の研究のみならず、グローバルな近代史研究の史料として、多くの方々にご活用いただければ幸いです。

2020.09.30山縣勇三郎書簡の紹介

山縣勇三郎書簡

資料形態:原資料デジタル化

所蔵者名:山縣茂徳

監修:根川幸男

翻刻:入山洋子

主な内容:ブラジル在住の実業家・山縣勇三郎が、1918年6月に日本に一時帰国後、翌1919年11月にブラジルに再渡航する際、香港・シンガポールなど寄港地から長男・操らに発信された書簡。書簡は全部で15通あり、最後の1通のみは、木本茂吉に宛てた書簡。墨書やペン書きで、1通につき2~4枚の便箋や原稿用紙で構成されている。

資料入手の経緯:2019年2月9日、長崎県平戸市にて、人間文化研究機構ネットワーク型基幹研究プロジェクト「日本関連在外資料調査研究・活用事業」国際シンポジウム「国際海洋都市平戸と異文化へのあこがれ―在外資料が変える日本研究―」(主催:プロジェクト間連携による研究成果活用)が開催された。その際、所蔵者とその家族が来訪し、本資料の存在を知るに及び、その調査を開始した。その後、所蔵者より本資料を貸与され、デジタル化と翻刻を進めた。

凡例

翻刻にあたり、読みやすさを考慮して次のような措置を施した。

一、句読点・並列点を適宜付した。

一、改行は原本通りとした。

一、漢字は原則として旧字体を現行の字体に改めた。ただし固有名詞はその限りではない。

一、仮名遣いは、適宜濁点を付し、合字・変体仮名を現行の字体に改め、助字の「而」「者」「之」を仮名に改めた。踊り字は原本通り記載した。

一、難読漢字や漢文調の語句に適宜ルビをつけた。ただし便宜上の措置であり、他の読み方を否定するものではない。

一、原本にルビが振ってある場合はその下に〔原〕と記した。

一、誤字・誤用については、正しい文字を〔 〕内に記すか、〔ママ〕と記して傍注した。

一、判読不明箇所は字数分を□で示し、推測しうる文字を〔 ヵ〕と傍注した。

一、書き損じで抹消された部分は記載しなかった。 【謝辞】本資料の公開に当たって、本書簡と関係資料を快く貸与いただき、記述の中で不明な点についてご教示いただいた山縣茂徳氏・飯田淑子氏(山縣勇三郎孫)

山縣勇三郎書簡01(山縣操宛、1919年11月23日香港発信)原文と解読文

2020.09.30 山縣勇三郎について

 本書簡の書き手である山縣勇三郎は、1860(万延元)年2月、肥前平戸藩の勘定奉行の家系、中村弥八郎・トモの四男として生れた。1872年、13歳の時に同藩士・山縣沈雄の養子となる。
 1879年に上京し、陸軍士官学校を受験するも失敗。1881年に北海道に渡り、古物商、ニシン漁場経営、海産物商をはじめ、鉱山経営や海運業に事業を拡大し巨利を博した。1894年に始まった日清戦争に感発され、事業を弟たちに任せ、「蒙古探検」のため従者2人とともに出発したが、朝鮮・平壌で病に倒れて帰国を余儀なくされたという。ここには明治人らしい立身出世と海外雄飛への志が見て取れる。1889年には、弟・精七郎をアメリカ留学に送り出している。
 1908年3月、シベリア鉄道経由でブラジルを目指し、ロンドン経由で、5月18日にリオデジャネイロに到着。日本最初のブラジル集団移民を運ぶ笠戸丸がサントスに到着する1ヶ月前であった。その後、リオデジャネイロ州マカエ郡におけるカショエイラ農場経営(米作、甘蔗栽培、アルコール醸造業を含む)、同州カーボフリオ郡サンペドロの塩田の購入と経営、漁業・海運業への進出。1920年にブラジル最初の水産学校「フレデリコ・ビラール水産学校」(Escola Industrial de Pesca Frederico Villar)を設立する。
 ブラジル在住日本人数万人、そのほとんどがサンパウロ州のコーヒー農場の契約労働者であった時期に、日本人移住者の主流と異なり、リオデジャネイロ州を基盤にこれらの事業を展開したことは、ブラジル日本人移民の多様性という観点から注目に値する。カショエイラ農場には、星名謙一郎、三浦鑿、金子保三郎、安田良一、石橋恒四郎、坂元靖など、ブラジル入国初期にこの農場に足をとどめたのち各地に雄飛し日系社会の指導者に成長していった人びとが足をとどめている。
 1924年2月25日、カショエイラ農場にて死去。

山縣勇三郎(1860~1924)

参考文献

根川幸男(2020. 3)「平戸から新世界へ―山縣勇三郎のブラジル雄飛」稲賀繁美編『異文化へのあこがれ―国際都市平戸とマカオを舞台に―在外資料が変える日本研究/Yearning for Foreign Cultures An International Symposium in Hirado and A Panel in Macau New Aspects of Japanese Studies based on Overseas Documents』、人間文化研究機構ネットワーク型基幹研究プロジェクト、pp.49-62.